短歌が掲載されている出版物の中には「短歌に自由を」なんてキャッチフレーズもあって、いったいどこが不自由なのかと思わず吹き出してしまいました。
こんなに好き勝手に自由気ままに書き殴っても、誰からもネガティブな評が出されない文芸なんてなかなかないと思いますが、この大いなる自由の代償がとても大きなものであることを理解していないのが歌人であり、歌壇なのかもしれません。
動物に鏡を見せると決まって(自らとは別の存在)だと認識して、攻撃したり仲間になろうとしたり不思議と思える反応を示します。人間は自分が映る物だと知っているから、そのことをおもしろおかしく笑って見ていますが、本来は動物たちの反応の方が正しいのだと思います。少なくとも短歌的な目線で言えば動物たちの方が正しくて、人間は間違っています。
進化はなぜ人に近くなるまで白目をなかなか見せなかったのか、それは「見られている」ことを意識していなければ命の危険にさらされたからに他なりません。
こちらも見ているし、見られてもいる。この緊張感が動物たちの鋭い眼光に宿っているからこそ、無垢で美しい姿を保っていられるのでしょう。
字数を満たす当てはめ短歌に嵌まって、うまいこと言う選手権に参加し始めた人達は、必ず「缶入りドロップ症候群」に陥ります。実際に「うたの日」の歌のほとんどがこの「缶入りドロップ症候群」に侵されたものばかりですし、パターン化の顕著な例として何度も何度も繰り返されてすり減って既視感だけが積み上げられていきます。
※「缶入りドロップ症候群」
缶入りドロップの歌では必ず「ハッカ味」が歌の肝となっていることに例えられる、題材によって固定化されたモチーフの歌ばかりになる病。
《例のごく一部》
・缶入りドロップ=ハッカ味
・二人で分ける=パピコ(アイス)
・硬いもの=ハーゲンダッツ(アイス)
・背中=翼、羽
・やんちゃ=無敵
・ホーム(電車の)=白線
・バス(自動車)=窓
・幼子=小さなパーツ
・金魚=弱々しい
・お風呂=人魚
・怪獣=子供
・海月=雨、傘
「自分ごとから離れられない」ことと「うまいこという選手権」、そして「缶入りドロップ症候群」が現代短歌、いや現代歌人の3大疾病なのだと思います。
生活習慣病では予防のために「指数」や「指標」が用いられますし、それを参考にして改善を試みることができます。しかし歌壇には指標も指数も提言もなく、賢いお医者様もおられません。自分で節制や抑制をして、体温や血圧を測って気を付けて生活するしかないのです。
当人達は何も気付いていませんが、自由の代償は思いのほか大きいことを自覚しなければなりません。短歌が短歌の体を成さないのならば、もう「私歌」とでも改名した方がよいのかもしれません。
託されていることを胸に、丁寧に詠む。
それが今短歌には求められているのです。
・ われ先に生きた証にしがみつく 私歌(わたくしうた)と名を改めよ
たかだか百年に囚われて、永遠に残るものなど刻めるはずもない。託されていることの重みを感じて丁寧に見渡さなければ。
2021年6月19日
短歌 ミルク