缶ドロップ症候群のように、自分大好きな作者たちは面白いように同じモチーフで同じ切り取り方をすることから離れられない。夏に麺という題が出れば、きまって半数以上は素麺の歌になり、発想や思考が固着化されてしまっていることが顕著に現れます。
「自分ばかりを詠む」人と「自分に関わらず詠む」人はそもそも何が異なっているのでしょうか。
自分が大好きな歌人達はとにかく自分を万華鏡の中に入れたがります。
入れて適当に回せば、どこかにはきらっと光る自分がいるのではないかという期待だけで、とにかく入れて回すことに必死になり、その周りで展開されている事を簡単に見逃してしまっています。つまらない平凡な日常をやたらと大げさに表現したがることの理由がここに在るのだと思います。つまりは自分しか見えていない景色であることにも関わらず、他人が見てもこうなのだろうという安易な想像力しか働いていないことが明確です。人は工業製品ではないのだから、同じ物を入れて同じように回したとしても異なるものが見えるはずです。それこそが個々を最もよく反映する像を結ぶのだと思いますが、キラキラした見せかけに踊らされて自分も同じものを覗きたいと安易に考えてしまっているのでしょう。
「自分に関わらず詠む」ことを心がけている人の歌には、時折自分そのものが邪魔ではないかと思われるくらいの切れ味を見せるものがあります。私や吾という言葉を使っていたとしても、底知れぬ阻害感を伴って歌が私情を排しようとしている力を感じます。それはもう一人の心の中だけで留め置けるようなものではなく、人全体が背負わされた宿命のような重みを感じることがある一方で、人だから?それがどうしたという、禅問答のような無言の問いかけを孕んでいるぶっきらぼうさ、合理性や論理性に満ちた自然の理のような単純さを追い求めているようです。
誰しも自分が可愛いし、自分にもきっと輝く一面があるだろうと思いたい、その気持ちはとてもよく解ります。しかし大劇場でプロの照明や音響や一流の舞台装置を使ったとしても、素人が芝居をすれば学芸会止まりであることは明白な事実でしょう。
自分を入れる入れ物が重要なのではないし、自分の発する光を見つけることが目的ではありません。
万華鏡を一旦横に置いて、自分の心に届いた輝きの源泉を探さなければ、真に詠いたいものと出会うことはありません。
自分ばかりを詠う歌の賞味期限のなんと短いことか、皆さんもよくよくお感じになられていることでしょう。
自分に関わらず詠めれば、歌は永遠の命を得ることができます。
言葉が心を越えたなら、人を越えて生き続ける宝物へ結晶するのだと信じて歌を詠みたいものです。
・ くるくると吾の姿をかわしつつ覗く光のまばゆさを詠む
鏡の国に移る自分はとても魅力的に見えるだろう。些細な事も増幅されて麻痺させてしまう。実体の重みは常に鏡の外側にある。
2021年6月27日
短歌 ミルク