歌に対して確かな自分だけのふるいを持つことができた今、読むべきものが限られてきたと感じています。歌を「道」と捉える私と、相変わらず世襲や権威主義の世界が混ざり合うことはないと思われます。今までは勉強になると思って読んでいた先人達の歌集も、少し色眼鏡を外してみればただのゴミにしか見えません。タチの悪い素人の歌集となんら変わらないものだから、ただの一首も記憶の中に残ろうとしないのでしょう。
同じように自分に起こった出来事を詠んだとしても、片方は自分を突き抜けて世界へ放たれるのに対し、自分すらも越えられずに「ふうーん、そう、それで?」でおしまいとなる歌は、到底同じものとは捉えられないでしょう。私には「自分」に向いてしまう歌の姿勢が人の奢りに見えて仕方ありません。人だから詠めるではなくて、人は詠むために託されているのです。もはや「自分」がどう感じたかなんて、どうでもよい次元のことだと思わなければなりません。「物言わぬ者の為に歌ありき」だという言葉の問いかけが常になければ、何ものにも真摯に向き合うことなどできないでしょう。
字を書くことが上手な人は、まるでペンや筆が生きて描画しているかのように滑らかに、生き生きとした筆跡で書いてゆきます。もしも筆が意志をもっていたのなら、きっとそんな風に書いたであろうと思えるほど、筆に託す思いと託される筆の懐の深さが調和しているように見えます。媒介する役目を知って筆は時に抗い、時に腕の一部となって紙との間と取り持っているのでしょう。
それが誰かに向けられた歌ではなかったとしても、歌は作者である「自分」と読者である「自分」の間を繋がなければなりません。自分の事だから自分は100%理解できているというのは愚かな思い込みに過ぎないのです。
もしも「自分」以外の人に向けられる歌ということになれば、「歌意」を放り出すことなど決して許されません。
「どうぞ自由に解釈して下さい」ということは、
「言葉には何も託しておりません、ただのひとりごとです」と言っていることと同じです。
それぞれに自由な解釈があるだの、作ってしまえば読者のものだの、そんな言い訳はとても見苦しいだけで、ただ雰囲気で作ってしまったと告白しているようなものです。
筆は勝手には動かず、必ず作者の心中を写し取るように動くはずです。
明確な道筋があればそれに従って迷いなく描ききるでしょうし、あやふやな地図であれば迷走するものとなるでしょう。
筆を短歌に置き換えて、極める道があるはずだと思っています。
その境地に達することができなければ、結局は何も記すことなど出来てはいないのだと思います。紙に書くだけならば、象でもアシカでもできるのですから。
2021年1月26日
短歌 ミルク