もう、すべての歌を把握することすら難しい数の投稿となってしまった様々な短歌の投稿サイトを巡ってみれば、本当によい歌にはなかなか巡り会えないものだということがわかります。
遊びで参加しているとはいえ、プロもセミプロも短歌歴何十年という強者もいる中で、心を捉えて離さないような歌はそう多くはありません。
沢山の歌が投稿されているサイトでは、「うたよみん」「うたの日」「うたのわ」「Utakata」などがありますが、自分の嗜好に合った短歌にはほとんど巡り会えません。
「うたよみん」に少し、「うたのわ」に少しといった所でしょうか。
「うたの日」と「Utakata」は私の中の短歌とは大きくズレているので、ほぼすべての歌が何も感じない歌ばかりでした。(概ね自分語りと言葉遊びに終始しているようです)
投稿される99・9%の歌が自分に張り付いた「私性」の権化のようなものですが、残りの僅かの中にそれらを上回る輝きを秘めた歌が隠れています。
それはまるで作者の心の中が沸騰したかのような力や衝撃をもたらしてくれるものです。
単に言葉や比喩の落差に溺れず、水からきちんと100℃になるまで温めたものが内側からほとばしり出るかのように綴られているのです。
「沸騰状態になればなんでもいい」とさえ形容できる「短歌モドキ」では、まるで気圧を下げたり、氷を入れたりと、本来の100℃での沸騰が煩わしいとでも言いたげな簡単レシピに基づいた投稿がひっきりなしに行なわれています。
こんなことでは、100℃の沸騰でしか味わえないものが再現できる訳がありません。
「そうは言っても瞬間的に沸騰して産まれる歌もある」とおっしゃる方もおられるでしょう。私も否定をするつもりはありません。けれどもよくできたもので、短時間で沸騰するポットのお湯は驚くほど早く冷めてしまうのも事実です。
言葉も同じで、じっくり時間を掛けて温めたものはなかなか冷めないのだと思います。
短歌には温度にも似た温もりがあり、時間が経とうが百回読み直そうが、冷めない普遍性があると思っています。
現在ネットに投下されている短歌モドキはいわば「使い捨てカイロ」のようなものですが、
水からの沸騰を経て作られた短歌は備長炭のように燻る炎を持ち続けます。
使い捨てカイロが温かくなくなったらどうなるか、言わずもがなですね。
沸騰のハードルを下げたり、沸騰の意味を取り違えたり、そのようなことで短歌を取り巻く良い環境が醸成される訳がありません。
言葉の大切さを知れば知るほど、安易に詠んではいけないのです。
静かに沸騰を待つ心を持ち、沸騰しなければまた水からやり直す位の潔さも必要だと思っています。
沸騰するまでは短歌にしない覚悟も、これからは必要になってくることでしょう。
2021年2月27日
短歌 ミルク