レトルト短歌を読むインスタント歌人達が概ね行き詰まるのは、擬人化と比喩に限界を感じているからかもしれません。いずれにしても「気付き」のない短歌はただ通り過ぎる風、ほんの一瞬温かいか、冷たいかを問われているだけのものです。
時間と再読と考察に耐えることができてこそ、本物の短歌たり得るものです。
インスタント歌人は一旦三十一文字という「眼鏡」を掛けてしまうと、「自分だけが見える世界」だと勘違いし、レトルト短歌を量産し始めます。「眼鏡」は本来「気付き」であり、そのはるか先ルーペや顕微鏡、双眼鏡や望遠鏡の導く世界を思索することが、短歌の思考には欠かせません。誰もに放たれた視界から、誰も見つけられなかった砂粒を見いだすことが歌の本分であると思っています。
とってつけたような擬人化や見かけだけおしゃれな比喩など、見破ることができる人にとっては赤子の手をひねるようなものです。それに気付かず「眼鏡」の世界を短歌の世界と勘違いしてしまうと、もはや成長など何処にもありません。ただの「自分大好き」なお年寄りになってしまうだけでしょう。
「雰囲気」は心の真ん中をズドンと射貫いたりはしないものです。
誰も見つけられなかった砂粒は平穏の何でもない景色の中にあるものですが、平穏の何でもない景色や、誰でもが共感できることを詠んだとしても必ずしもその中にあるものではありません。多くの人が擬人化や比喩をこの砂粒の輝きだと勘違いしています。
砂粒は何度も何度も眺めて、触って、確かめて、はじめて宝石の輝きであると気付けるものです。一瞬光ったからと砂粒を宝石と見紛うことは、ただの愚かなことに過ぎません。
度の過ぎた落差、あり得ないほどの大げささ、普通のことを特別なことへと無理強いし、
装うばかりの歌の軽薄さ、すべては安易に歌人と名乗れることの弊害のような気がします。
言葉の力を借りて呪縛のような「私性」から離れ、気付きを公に放たなければ短歌の意味など無くなるでしょう。
人が存在してこそ短歌は作れるもので、歌がなくても自然は存在し続けます。
あらためて人が作る意味、人が詠う意味を考えながら、一年の課題としたいと思っています。
2021年1月18日
短歌 ミルク