まるで心の中に短歌用という1台の冷蔵庫があるように、次から次へと歌を放り込む人が後を絶ちません。
冷蔵庫というものは不思議な道具で、入るスペースがあると思えば必ず食材を買ってその場所へ入れておきたいという欲求に駆られるものです。後々無駄になることも想定はできているけれど、その想定を上回る購買と収納欲求に押し切られ、入るから買ってしまう、入るから入れてしまうということを繰り返して、使えないまま廃棄してしまうというループからなかなか抜け出せません。
あまりの廃棄食材の多さから我が家でも思い切って容量を1/3程度の冷蔵庫に変えてみました。すると劇的に廃棄食材が減り、果ては食費代までが圧縮されるという驚きの効果がありました。
タイトルにも書きましたが、入るから買ってしまう、入るから入れてしまう。が抑制された結果、節約に繋がったのです。必要な量を必要なだけ期限を守って使い続ければ、実際には何分の一かの容量で事足りていたところを、容量に任せて好き勝手にしていたのです。
この経験から、どうやら人の心にも短歌の冷蔵庫のようなものが置かれているのではという気がしてきました。
三十一文字であれば何でも入れてしまうような勢いで、頭に浮かんだものを片っ端から歌にして放り込んでいる人もいれば、タッパーに整理整頓して無駄が出ないように知恵を働かせている人、そもそも本当にその場所に入れる必要のあるものだけを入れている人、様々だと思います。
皆さんの短歌という冷蔵庫の中はどうなっているでしょうか。
果たして多くを詰め込んで、必要な時に取り出して、いつでも美味しく食べられて、廃棄されることもなく、言葉や歌が生き生きとしたままでしょうか。
実際には歌の方が本当の食材よりもシビアな要求をされるものなのではないでしょうか。
冷蔵庫に入れたからといって、感動や情景の瑞々しさがいつまでもきちんと保存されるとは限らないのです。
毎日作り続けていたら、いつかきっと凄い言葉や歌が浮かんでくる とか、
毎日作り続けていたら、きっと感性は磨かれるはずだ とか、
とにかく沢山作り続ければ、中には良いものもできるはずだ とか、
必ず私の歌に共感してくれる人がいるはずだ とか、
誰かが私の才能を見つけてくれるはずだ などという
笑ってしまうような甘い幻想を抱くのは止めましょう。
学んだり、研鑽したり、考察したり、きちんと方向性を持って力を働かせなければ、良い歌など生まれないでしょう。
何千首作ったとしても後から自分の歌を繰り返し読み直して、
「こんな歌では全然ダメだ」と思えないようでは、1mmも成長していないと自覚するべきです。時折歌歴数十年という方の歌も拝見しますが、はじめられた時とほとんど変化のない作歌をされているのでしょうか、なかなか歌が練られているように感じられません。老いていく自分に歌は寄り添っているのかもしれませんが、寄り添うべきは自分ではなく、歌の対象となる出来事にこそ心を寄せなければなりません。
心の冷蔵庫は豊かな暮らしをして幸福度の高い人ほど、容量の大きなものに例えられるでしょう。細かなやりくりに心を痛めることもなく、買いたいもの、食べたいものを好きなだけ放り込めます。もしも現実に貧しく苦しい生活を強いられているのならば、心の冷蔵庫に「短歌」を入れられる隙間も無いかもしれません。だからこそ少しでも入れられたなら大事に大事に扱うでしょう。決して乱暴に廃棄食材にするようなことは起きないと思います。
結社歌人やプロの歌人の多くは、余裕綽々で大きな冷蔵庫を謳歌しています。
そのような中から、小さな幸せを味わう歌や身につまされるような歌が生まれてくる訳がありません。
いつまでも上から目線で文学の土俵の一員を気取っていては、裸の王様と揶揄されるのは時間の問題です。
私はかろうじて自宅にはじめて製氷できる冷蔵庫が来た時のことを憶えています。今できている氷と何が違うのかと問われれば、見た目も温度も何も違わないでしょう。けれどもその時に口に含み、かき氷の真似事をし、粉ジュースを溶いた時間と記憶は鮮烈に刻まれています。
心が動く事象は何気ない生活の中に突如として現れるのです。
心の冷蔵庫を必要最小限にして放り込むものをきちんと取捨選択できるように、自らを整えておかなければならないでしょう。
そして歌壇の重鎮の皆様は、食材をすべて取り出してご自分の頭を冷やす努力をされた方がよいかもしれません。
2021年9月22日
短歌 ミルク