慣れというものは日常のあらゆるものを麻痺させてしまう厄介なものです。一口の大きさを誤って果物を喉に詰まらせてしまったり、小さな段差につまづいてしまうことも、もはや日常茶飯事です。テレビを見ながら食事をするなということも、横を向いたときに僅かだが首がねじれて食道の幅が狭くなり食べ物を詰めてしまうことが起こりうるからで、何が原因でそうなるのかを順序立てて考えられないまま甘やかされてばかりいれば、いつか命に関わる判断ミスを犯してしまうかもしれません。
壁の同じ場所に毎年カレンダーを留めている人、たくさんいらっしゃるでしょう。
段々押しピンが抜けやすくなってきていることにも気付かれているでしょう。
ちょっと長めの押しピンに変えてみたり、少し離れた所に留めてみたり、考えることは皆大体同じような事です。
押しのけた圧力の反対向きの力で押しピンは支えられています。
同じ場所にたくさん穴が開けられてしまうと、壁もスカスカになって反対向きの力も当然弱くなるでしょう。そんなことは当然わかっています。わかっていますが止められません。
それが留まっていても、落ちていても、自分の生き死ににはあまり関係がないからだと思います。薬にも毒にもならず、あってもなくてもどちらでもいい、そんな油断が穴だらけの壁を放置しているのだと思います。
壁は短歌、カレンダーは個々の歌です。
何でもかんでも、何の基準も設けずにやりたい放題に壁に留めていると、いつか壁そのものも何も留められない、使い物にならない状態になってしまいます。
一年に一回しか穴を開けないカレンダーですら、気付けば壁は穴だらけになっているわけですから、毎日のようにゴミのような短歌をSNSに垂れ流していると、もう何も留め置く力は無くなっているでしょう。留めては剥がれ留めては剥がれの連続で、誰の目にも心にも残らない掲示板の落書きとなってしまうことを多くの人は解っていません。
一度留めたら、もう一生その場所に貼り続ける、貼り続けられる歌ならば、剥がれて忘れ去られるどころか、心に焼き付いて離れないものになるでしょう。「にんげんだもの」と安易にすべてを許容してしまうことは、ジャンルの崩壊と○○モドキを産んでしまう諸悪となりかねません。
大多数が居る方が正しいなどと戯言を言っていられる時代は終わりました。
ぐるぐると玉石混交の鍋をかき混ぜ続けることに意味などありません。
カレンダーの例えを出しましたが、実際は短歌は日記との境界が曖昧になりつつあり、次第に日記化してしまっています。日記は自分ごとだから、簡単に他人にその世界を理解してもらえるわけではないと口を酸っぱくして言っても、何かのオーディションと勘違いしているのか一向に投稿し公開することを止めない人達。次第に食いつぶされて、もう短歌を貼る場所がなくなってしまうかもしれないのに、売れもしない歌集を作り続けている歌人達。いったい何がこの終末期を止められるのでしょうか。
短歌も歌壇も歌人も何も守ろうとは思いませんが、私の信じる一首自立した永遠に留め置ける歌を求める道だけは、決して見失うことのないように心を研ぎ続けたいと思っています。
・ 張り替えてそれでリセットされるのか剥がれた歌の痕だけの壁
まさか穴まで文化とか芸術とか言い出さないでしょうねぇ。ただのゴミですよ。
2021年9月5日
短歌 ミルク