ひっきりなしに投稿している若者の中でよく見かける言葉があります。
「どこかの誰かに伝わりますように」
願望はわかります。でも「どこかの誰か」って一体誰なのでしょうか?
何だか有り難い神様のお言葉のように思えてくるし、そもそもそんなティッシュ配りみたいなアナログな考え方でたまたま波長の合う人に巡り逢ったりするのでしょうか。
残念ながら希望通りに伝わることはなかなか無いと思います。それは投稿したものや投稿した本人が悪い訳ではなく、検索という仕組みが正常に機能していないからだと察します。
投稿サイトはオーディションサイトではないので、投稿されたからと言って必ず誰かが審査することもありません。放置されているに過ぎません。となれば、検索に引っかかるしかありませんが、これがくせ者です。タグを優先したり、いいねやフォローの数を優先したり、投稿された中身のこととは全く関係のない検索の仕組みで動いているサイトが多すぎることも原因の一つだと思います。
時系列や順序が無視されて、意味の無いいいねやフォローや閲覧の数が優先されてしまうから、探したい人が探したいものに行き着くことが出来ずにいるのです。
一部のインフルエンサーやスポンサー、メディア関係者だけが優遇されているだけの仕組みに今更何を言っても改善などされないと思いますが、スマートフォンだけにしがみついて他の世界が見えづらくなることの方が問題かもしれません。
他者と繋がりを作ったり持ち続けることは大切なことだと思います。それらは必要最小限でも中身が濃ければ十分だと思うのですが、群れなければ何もできない人の心理そのものが餌食となってこの間違った検索システムを動かしているのでしょう。
ひっそりと創作できることが何よりの優先課題である私にとって、SNSの呪縛がないことは本当に有り難いことだと感じています。メールやコメントのお返事もじっくり腰を据えて書くことができますし、限られた人だけが見て知っている「秘密基地感」が滲み出て、ちょっと得しているなとも思います。ちょっとした気付きを分け合える仲間が数人いれば、それだけでもう十分充実した短歌生活を送れているのだと実感するのです。
実際の世の中でも優れた歌は落選歌や投稿もなさらない人達の手元にこそあると思っています。不完全な検索を繰り返すよりも、本を一冊読んだ方が近道なのかもしれませんし、少し散歩で遠回りをした方が心地よい刺激をもたらしてくれるかもしれません。
たくさんの人と繋がって、少しでもチャンスをものにしたいという気持ちはよく解るのですが、あまり数のマジックやタグの偏りに流されすぎてしまうと意欲とは逆にネガティブな思考が湧いてくることもあるでしょう。いいねやフォローの根拠は極めて曖昧で不正確です。数十万件になってはじめて具体性のある影響力を計算できるものです。これでは数でさえ何かのきっかけにすることも相当高いハードルだということだと思います。
いいねもレビューもフォロワーも検索順位も、すべてお金でコントロールすることが可能です。(実際にコントロールされた例も複数あることですし、すべてが完全に善意や真実に基づいているなんてあり得ないと思います。ビジネスですから。)
様々なサイトに絨毯爆撃をするような投稿ばかりが目立ちますが、一万人の素通りする人達よりも、真面目に歌を読んでくれる一人の方が遙かに大切です。投稿が無駄だとは言いませんが、過度の期待をすることは止めた方が身のためだと思います。
少しでも自分の感性や感覚に響く言葉遣いをする歌人や小説家、エッセイストを見つけて一冊でも多く本を読むことをオススメします。その方がネットの中にはない宝物をいくつも見つけることが出来るでしょう。本物の輝きを持つものはダイヤモンドのように簡単には見つけ出せないものです。どこかの誰かよりもまず自分の中に刻まれる歌を探し出すことが実は一番の上達への近道なのだと、優れた言葉や歌は教えてくれているのです。
2021年9月14日
短歌 ミルク