歌の評価をする際に、「良いとか悪いとかではない」という言葉を耳にします。更に人によってとか、結社によってとか、選者によってとか、もはや良いのか悪いのかではなく、一体何が基準となって評されたり、選ばれたりしているのかすら曖昧な物言いに出会います。
良いも悪いもわからず、比べもできないというのは、果たして本当なのでしょうか。
短歌界の悪い癖である、ただの逃げ口上ではないのでしょうか。
数値化しろとまでは言いませんが、何をもって良い基準、悪い基準とするのか、選を引き受ける人達には明確にしておく義務があると思っています。
プロの歌人はまず、自らが最良とする短歌の着地点を細かすぎる位説明しておかなければならないでしょう。人によって白が黒となり、黒が赤となり、白が青となるならば、もはや超越した何かを目印に据えておかねばなりません。芸術や文学と商業は、元来相反するものかもしれませんが、比べることで商業化でき、継続できているというのも一つの現実だと思います。
短歌が綺麗事だけを並べて経典を気取っていても、得られる悟りが無ければただの落書きに過ぎません。ぶっちぎりの到達点がないのだとしても、目指せる頂としてその登り方は幾つもあるでしょう。力不足なら力不足だと、影響力が足りなければ足りないと、腹を割って吐露する歌界でなければ、本物の歌人など産まれるはずもないのです。
本当に良い作品や優れた歌人が現れた時、ビジネスが放ってはおけないほどの衝撃が走り、忽ちにヒエラルキーが崩れ去ることになります。不確定な情報や内輪のご贔屓に左右されず、確固たる物差しを持った場所が用意されたとき、本当の意味で「私性」から解放されるのかもしれません。
もう組織慣れした現代人にはそんな潔さを求めても難しいのかもしれませんが、とにかく「世界に一つだけの・・・・」という幻想に囚われすぎている病だと思っています。
「参加することに本当の意義がある」ということを短歌界が標榜するのなら、もう特選も入賞も佳作も必要ないと思いますが、標榜していながら餌のように賞をぶら下げているだけなのでしょう。何の意味もありません。
短歌は修行です。
歩むべき道があるからこその修行です。
頂が見えていなくても、頂の気配を抱きながら続けることが大切な心構えだと思っています。何もかもを曖昧なままにしておいては、気配すら感じられないでしょうし、その道筋も見えては来ないでしょう。
明確な指針が各々の想像性を阻害するとは到底思えませんから、やはり歌界は怖がっているとしか考えられないのです。
21年2月20日
短歌 ミルク