※おことわり 今回は短歌にまつわるコラムではありません。
東日本大震災から10年が経過し、防げなかったものと防げたものの違いがはっきり見えてきたのではないかと思います。
政治というものが果たしてきたことと、果たそうとしなかったことは、10年経っても全く変わっていないことが不思議なくらい、悪しき前例主義に国はまみれています。
「備える、自分で守る」と言いながら「再発防止」に取り組むと言う二枚舌の政治に、いつまでも騙されていてよい訳がありません。
此の世の人のすべてが、たった一つしかない命の重みを知っているからこそ、犯罪や戦争や飢餓や環境破壊を避けて生活しているのです。
人の命に「再発防止」などありません。失われればそれまで、そこで終わりです。
津波が避けられなかったとしても、「原発事故」は絶対に避けなければならない命題であったはずです。飛行機と同じことなのに、墜ちたら終わりだということをわかっていたとは到底思えません。
政治家は今でも問題を起こす度に「再発防止」というスローガンを簡単に掲げて国民を煙に巻こうとしていますが、「起きてしまえばアウト」という実感を何処かに置き忘れてしまっているのでしょう。
これは政治の奢りであり、大都会の奢りであり、大企業の奢りであるとも言えます。お金や賑わいにものを言わせて地方や田舎を弄んでいることの意味を知らねばなりません。
「賢い国民」は「再発防止」なる言葉をあまり発しないと思います。
「起こさない」「死なせない」が大前提であり、「起きたから」「死んだから」では遅いのです。犠牲になって死ぬ人柱のことを美学のように語る言い伝えなどもありますが、知己が及ばなかったらただの犬死にです。
アイルトン・セナやジル・ビルヌーヴのように事故死したレーシングドライバーを「伝説」とか「天才」とかもてはやす傾向が其処此処にありますが、危険な仕事であるからこそ、プロとして絶対に死んではならないと思います。死んでしまって危険を証明することは誰にでもできること、プロが行うべき行動や行為ではない、素人のすることです。
危険だと感じたら、ニキ・ラウダのように車を降りてリタイヤすることが自分と周りの人を危険から守ることの唯一の方法だと思います。
私たちは生き物の声や色さえも無くしてしまった原発事故の被災地に思いを馳せ、帰還困難区域を絶対に出さないことを肝に銘じなければなりません。
もの言わぬ動物も植物も、人にはそのことを願っていると信じて止みません。
豊かさや便利さが行き過ぎていると、新型コロナウィルスは私たちに知らしめました。
車に異常が感じられて危険だと思ったらレースを止めて車を降りる。
それを当たり前にできる人類でいなければ、絶滅して誰も美談を語ることなどできなくなっていることでしょう。
2021年3月6日
短歌 ミルク