バーチャルなんとか、とか、ARなんとかという展示や催し、プロジェクションマッピングに代表されるテクノロジー頼みの芸術モドキ、それらすべてが人の体の延長線上からはかけ離れた場所から生み出されたものでしょう。
慢性的に「リアリティ」が欠落していることを誰も咎めないのは、見ている人間にそもそもリアリティが欠如しているからかもしれません。
あるテレビ番組の中で目が不自由な方が模擬プレゼンを行っていた中で、同僚や上司と思しき晴眼者の一人が「手でジェスチャーを加えれば、より伝わり易くなるのではないか?」という意見を出しました。そしてそれに対して発せられた言葉に晴眼者の人は絶句してしまいました。「反応があってもそれが見えないのだから、動作の意義を感じ辛いし、やらされている感がある」と答えられたのです。
同じ職場で働いていれば少しは感覚が鋭くなって、もう少し発展した思考が育まれるであろう晴眼者が、見えているが故に見失ってしまった「自分寄りで相手のことまで想像できなかった」愚かな意見だと思いました。
「自己愛」は思わぬ所で顔を出し、見えているという現象から常に逃れられない麻薬のような働きに拍車を掛けてしまいます。晴眼者には万能とも思える「見える」ということが、砂で出来た城のように脆いことを思い知らされた瞬間でした。
同じ番組の中で目が不自由な中で料理をされている映像もあったのですが、食材への触れ方、食材の切り方、温度の確かめ方、焼いたり煮たりとその具合の確認の仕方など、すべてが皮膚の感覚を基準に進められていました。刃物で切ってしまったり、火傷をしてしまったり、そのようなリスクがあっても、自らの皮膚の感覚の延長線上で確かめようとすることが真に必要なことなのだと、画面を通じて暗に諭されているようでした。
以前に「衝動に躓き落ちて這い上がれ 心は言葉を越えられるのか」という歌を作りました。それは今までに何度か言葉が心を越えた瞬間に遭遇したからに他なりませんが、偶然にもそれらはすべて目が不自由な方から発せられたものばかりでした。
すべて見えているのに、晴眼者には圧倒的にリアリティとそれを言葉にする感性が欠如しているのです。とても身につまされる大きな大きな課題です。
何気ない日常が何気ないものではなく、危険や困難に満ちた日常である人達がたくさんいらっしゃいます。普通の想像ではとても追いつかない、一歩も二歩も踏み込んで、考えて、慮(おもんばか)って感覚や感性を言葉に置き換えなければなりません。
極彩色という色は光を失ってこそ見える色なのかもしれません。
本当の極彩色を晴眼者が見ることはないのかもしれません。
それくらい精神と神経と感性を研ぎ澄ませて挑まなければ、現象を受信する感度は鈍ってしまうのでしょう。安易なテクノロジーや豊富な物質文明だけに頼らず、体のすべてが感じる衝動を言葉にする訓練が必要だと感じます。
スマートフォンの中に写真が百万枚あったとしても、意味の無い技術の無駄遣いです。
・3Dテレビは消えた 感覚は押しつけられても研がれはしない
無駄な技術の転用をいつまで続けるのだろう。そして有用な技術の衰退はどこまで進むのだろう。革新的だった「見えるラジオ」も今はもう無い。
2023年2月3日
短歌 ミルク