白物家電は発明や特許の期限切れに伴って(ジェネリック)と呼ばれる同等性能の安い製品が大量に市場に投下されて、それなりに賑わっています。日本製の品質や性能の高さ、確かさを売りにしていた時代は終わり、新たなステージでの競争が始まったように見えます。大手メーカーが次々と合併や買収の憂き目に遭い、今は多くの小さな新興メーカーがしのぎを削っています。ジェネリックに頼らない、柔らかい思考の大切さが求められているのでしょう。
日本の家電メーカーが最も日本人らしく失敗し、敗北したのは掃除機でしょう。
今市場を席巻しているのは、縦型のサイクロン方式のものとロボット掃除機の二強だと言って間違いありません。いつまで経っても従来型の思考を変えられなかった国産メーカーは、全く予想もしないアイディアの登場によって簡単に市場を奪われてしまったのです。
やたらとマスクをしている日本人のことをヘンだなと揶揄していた海外の人達も、あっという間にほぼ全員がマスクをするようになりました。
硬貨やお札を触らなくなり、レジ袋もあっという間に姿を見せなくなりました。
このように異なる価値観や判断の物差しをもってすれば、白が黒に置き換わることは簡単に起きてしまいます。
現在まで続いてきた(当たり前)を疑わなければ、掃除機に限らず全てのものが覆される可能性を秘めているのだと思います。
工業製品には値としての性能や使用することによる実感がありますから良い悪いが明確に晒されていますし、味のような尺度にも素材はある程度同じ方向性を持った評価軸で比べられていますから、多少の好みを加味したとしてもレビューが実感と大きく相反することは珍しいことでしょう。
短歌に限らず、判断基準のないものはいつまで経っても(大切な核)がうやむやのままで、
誰かが数値化したり表面化させて初めて革新が動き始めるといったことを繰り返すばかりなのです。
歌人だって、ぼーとしていると叱られるくらいでは済まない変化に晒されることになるでしょう。
今あるほぼ一種類の価値観が崩れ去るとき、いったい何人の人が生き残れるのでしょうか。もう高齢化で結社の存続が・・・・などというレベルのお話では無くなるでしょう。
「私」の文化や表現だから、否定したり辛辣に批評したりすると「私」そのものを否定したり批評することになりはしないかというブレーキがいつも踏まれているのではないのでしょうか。
いつまでも「私」の中からは出られず、比べられもしない。大いなる同調の中で流れるプールをグルグルと廻っていれば沈まないとでも錯覚しているのかもしれません。
だから「私」や「私ごと」を詠むなと言っているのです。
何度も言いますが自分の出来事を詠むなということではありません。適切な距離感を持って詠むことを心がけるということです。そこから「短歌」はスタートすると思っています。
光は吸い込まれないからこそあらゆる所で輝きを放ち、物のかたちを浮かび上がらせるのです。意志や理由なき同調が物事を正しく導かないことは、多くの日本人がもう学んでいるはずです。
・ 弾かれて眩しさを放つ光るとは取り込まれずに抗うことだ
正しいとか正しくないとか、そんな事ではない。褒めるばかりでとても気味が悪いのだ。
同調の度が過ぎたことを戦争の歴史が物語っている。
2021年6月21日
短歌 ミルク