カラオケで歌って100点が出たとしても、なぜだかその歌は全く心に響かないものに聞こえるのは、聞く方がおかしいのでしょうか。それとも本当に琴線に触れるようなものが感じられないから沁み入ってこないのでしょうか。
私は早くから短歌にこのような違和感を感じていました。
プロの歌人の歌が本当に響いてこない、全く心に残らないという印象で埋め尽くされたのです。しかし一方で歌謡曲の歌詞や詩集や俳句などでも刻まれるものは多くあって、一体短歌のこの優劣というか選ばれかたはどうなってしまっているのか、どのような基準や指標で選ばれているのか、甚だ疑問に感じています。
しばらく短歌に取り組んでみてわかったことは、「これは指標そのものが間違っている」のではないかということでした。良しとするものと悪しとするものの基準がそもそも異なっているから、全くもって響かない、何の感情や感想も湧いて来ない、ただの呟きに見えてしまうのではないかと思いました。
音階を正確に追えば誰でも一流奏者になれるという勘違い、自分が吹けば、自分が弾けば自分だけの趣のある音が出るという勘違いが、歌界には蔓延しているような気がします。
まるで残留農薬のようです。
自らに甘い基準を課してしまえば何でも市場に流れてしまいます。ただ鮮度や見た目だけで判断されて、後に体を蝕むリスクなど気にも留められません。
厳しくしていけば、一時的にはビジネスとしての可能性を失うかもしれません。しかし生き残るために本当の価値が求められたとき、重要な付加価値となって残れる要因につながるかもしれません。
ただでさえ薄く儚いビジネスモデルである短歌にとって、真に必要なことはどちらなのか、よくよく考えなければなりません。肉を斬らせて骨を断つがごとく、痛みを伴って慣習や世襲を乗り越えられるのか、背水の陣ごと崖から落ちてしまうのか、その岐路に立っていることは賢明な歌人ならわかっておられるでしょう。
・ 歌ならば音に回帰し旧仮名にすり寄る悪しき心諫めよ
こちらも風前の灯と言えそうですが、ラジオこそがその突破口になると思っています。
2021年2月6日
短歌 ミルク