形骸化したものを統制によって信じさせ、また空っぽの権威を圧力によって押しつけて、日本は敗戦したのだと思います。相手に負けたのではなく、ハリボテがバレてしまって袋叩きにあってしまったようなものでしょう。全くもって中身を信じて戦って死んでいった魂が浮かばれません。遺体や遺品すら故郷に帰ることのない純粋な命の重みを、私たちはいつまでも手のひらに感じていなければなりません。
安定や同調、画一化されることにまるで喜びでも感じているのかと疑いたくなるほど、日本人のパターンは一つに集約されつつあります。平和に呆けたまま死ねるのならば良いかもしれませんが、世界はそれを許さないでしょう。新しいウィルスは「形だけで中身のないものは去れ」と暗に諭しています。見えない相手を見くびってしまったら簡単に破滅の道を進むことになることを、いつになったら学ぶのでしょうか。
一度画一化されてしまったものは次に「違い」「らしさ」を求めて「行事」(セレモニー)にしがみつきます。日本の「行事」(セレモニー)の多さは異常だと思いますが、裏を返せばそうでもしなければ存在の意義が失われかねないほど中身はスカスカだということです。「自分」の行事は「世界」の行事だと言わんばかりにアピールし、世間に晒すことの愚かさにいい加減気付いても良さそうなものですが、大切なことは何も見えていない大衆は都会の電力の大半が地方の大きな犠牲のもとに作られていることを知らずにいます。
「見えない所で誰かがうまくやってくれている」という想定で頭は埋め尽くされ、いつか正常に戻るだろう、そのうちに元通りになるだろうという何の根拠もない予測を信じてしまっていることに、都会の最大の脆さを感じています。
「見えないところ」は「見なくてよい」所ではありません。
見えにくいところだからこそ、目を良く凝らしてみなければならない所だということです。
そして本質が一部でも見えたのならば、よく考えて行動しなければなりません。
9:00から17:00の幻想が創り出されて、猫も杓子も同じ時間帯に出かけて帰ってきますが、そのことが大して意味のないことはもう誰もが感じているはずです。しかし止められない。周りと違うことができない。形骸化の呪縛に陥って変わることを恐れてしまっているのです。
もしも時間が1分1秒の単位で10円玉のように貯められるのならば、通勤ラッシュなど起こらないでしょう。その無駄な時間を貯めておくために、あらゆる知恵を絞って対策を考えるはずです。しかし貯められないから甘んじて何も考えないなんて、進化を投げ出した動物と同じなのではないのでしょうか。
「みんな」がとっている行動や「みんな」が向かっている方向、「みんな」が叫んでいるスローガンが果たして正しいのかどうか、自分の「時間」や「寿命」をお金に換算して考えてみるべきだと思います。もしも貯められるのであればどうすることが正しいことなのか、心の隅に明かりを当てながら見つけることが求められているのだと感じています。
・「ふぅ」と吐く1秒ですら貯められず貯金箱はもう売れないだろう
尊重されるのは貯めておくという姿勢や気持ちであってお金そのものではない。電子になっただけで無くなってしまうただの箱を作り続けても意味は無い。
2021年3月30日
短歌 ミルク