今はビニール袋でも売られている売店の冷凍みかんも、赤いネットに入っていた方が自然だと感じることも、昭和ノスタルジー世代のあるあるかもしれません。
そもそも容器としての利便やコストや扱い易さを追求したはずの赤いネットは、いたる所で石けん入れとなって長く余生を過ごしています。
コロナ禍もあって液状のものが幅をきかせる現在にあって、石けんはそもそも固形にする必要性があったのかと思えるほど使わなくなりましたが、運搬や貯蔵の取り扱い易さや、長期保存といったことも考えられて固形という選択になったのでしょう。
石けんは指紋の凹凸に触れてはじめて溶けだし、その役割を果たそうとします。
どんなに美しい形やブランドの権威ある刻印があったとしても、それを崩して摩擦がなければ何の役にも立たないものです。そして一度泡立ってしまえば、もうそれがどこの何という石けんかなんて誰にも解りません。もしも誰かの記憶に刻み込むならば、泡立ちが良いとか、いい香りがするとか、濯ぎが素早いとか、手がしっとりするとか、まるで「汚れを落とす」という最大の目的以外の「付加価値」を追求しなければ生き残れないといった勢いです。
最大の目的以外の「付加価値」に一喜一憂している様は、短歌と短歌を作る自分に一喜一憂する姿そのもののような気がしています。
みかんを包むネットも四角い普通の石けんも、ただ一筋に最大目的のために作られて使われているだけですが、気づかないうちにそれぞれの無意識の中にしまい込まれて大切な記憶の一部になっているのです。まるで目指すべき所が「空気のような存在」であるかのように、密かにそしてじわじわと浸透するように刻まれているのです。
今は子どもでも材料があれば簡単に石けんが作れます。
みかんも外観がみかんのようであればみかんは名乗れます。
しかしその先へ続く「道のり」が無ければそれらは「おふざけ」に過ぎません。
「おふざけ」は文芸でも文学でもありません。ましてや「短歌」などと呼べるはずもありません。
私たちは時代が一体何を濯ごうとしているのか、見極めなければならないのです。
・ 泡立ちが悪いと嘆く石けんは汚れを落とすだけで良いはず
見栄えや体裁を第一に考える先に何があるのか?凍っても焼いても煮ても蜜柑は蜜柑。
2021年1月29日
短歌 ミルク