「能力に限界はない」などと簡単に言ってしまう人を見かけますが、大抵は限界そのものを見ようとせずにただ大きな希望の風呂敷だけを拡げたいというだけの安易な考えのようです。100mを3秒で走れるわけもなければ、10mジャンプできるわけでもありません。
パルクールという身体能力の限界を追求するかのような素晴らしいスポーツがあります。
この限界を手探りで追い求める感覚が、生身の感覚や現実感を更に強く刻んでいると思います。常に自分の伸びしろと限界との間を行ったり来たりする問答によって、真に成長という物があるのだと教えてくれているのです。
「うたよみん」の改変は正しい方向へ行なわれたと感じています。
参加者は必然的に「読み」に集中せざるを得ないことになり、もう「よいね」の数や「お付き合い」に余計な神経を使うことがなくなったのではないでしょうか。
キャプションも歌意を補完する意味では有効な機能だと思います。
このブログでは、「さらば うたよみん」というタイトルが最も多く検索されているようですが、投稿サイトそのものを否定している訳ではありません。そこに集う人達やサイトを運営する人達の短歌に対する向き合い方に対しての違和感を綴っているに過ぎません。
「うたよみん」には優れた歌が幾つも隠れています。探してもらうこともビジネスの手法の一つかもしれませんが、タグや参加者の名前だけでは探せない総数の中で、歌は自然に朽ちていってしまいます。
再び歌のページをめくり、もっとよい言葉や表現があったのではないかという自問自答を行う機会を作ることがとても大切です。その為には数を絞り込む作業が欠かせないでしょう。多作多投には全くもって意味などありません。作業日誌や作業日報ではないのです。
無駄に言葉を使ってしまうと、恐ろしいスピードで錆びていきます。
既視感というか既読感に覆われて、出来合いのパターンの中の一つとして刻まれていきます。刻まれるといっても、数分後には忘れてしまっている脆い記憶です。そのうちにパターンそのものも食いつぶしてしまって、うまいこと言う選手権すら続かなくなってしまうでしょう。
絞り込むこと、削ぎ落とす事、練り直すこと、これらから離れてしまっては何の楽しみもありません。噛みしめるに値する歌へと意識を変えてゆけるかが問われています。
すべては自分自身との対話です。
庭や畑のすべての花を押し花にしたいとは思わないでしょう。
特別なものだけが押し花になるのです。
自分が作った歌は、自分が振り返ってくれることを待っています。
それでも振り返らずにいられるのならば、それはもう歌などではないのでしょう。
・ 微睡みも慟哭すらも瑞々し縫い止めた歌の強き光よ
言葉の光はありがたい。迷いは総じて闇の中にあるものだから。
2021年2月24日
短歌 ミルク