最近の一番のニュースと言えばこの「滑走路」のスマッシュヒットということになるのでしょう。映画化もされたようですが、”異例のベストセラー短歌集”という帯の文句からは、歌集がいかに話題に登ることが少ないか、切実な叫びが聞こえてくるようです。
歌壇に限らず、多くの日本人には「不幸」に対する免疫がないように感じます。それが感動の沸点を押し下げて、100℃で沸騰するところを30℃くらいで沸騰してしまい頭の悪い評価者を生んでしまうのでしょう。本質から目をそらし、傍観者の線内から見渡した程度で「可哀想だ、だから凄い」と連呼したところで、作者が辿り着きたかった景色のどれ程を見ることができるのでしょうか。過大で過剰で拡大されまくっている解釈から、源流となる一本の細い糸を手繰り寄せることなど出来はしないでしょう。年齢も性別も経験や立場も一旦横に置いて、一首の歌そのものの成り立ちを丁寧に探っていかなければなりません。もうご自身の評が聞けない故人となった方の作品なら、尚更そうしなければならないでしょう。
1の痛みで自死する人もいれば、100万の痛みで自死する人もいます。つまり自死したという要素は評価に絡めることができません。常に上には上があり、下には下がある。これという基準のないものだからです。そもそも死んだら歌の評価が自動的に上がるようなそんな陳腐な仕組みなら短歌などただの道楽だと思います。いつも通りフラットな心で読んでみたいと思います。
人生に何も引っかかる実感が無く、たまたま短歌という31音に指先が引っかかることは、今でも若い人達の中によく起こる経験だと思います。
引っかかって、手繰り寄せてみて、少し腰掛けられるような縁が見つかって、腰掛けて考えて立ち上がろうとする。そんな動作にも似た感情が綴られているような第一印象を受けました。少しずつ洗練されていく様子も見て取れるのですが、それは「短歌そのもの」に対する変化だけで、作者自身が変化していく様子が見て取れないことが気になり始めました。
年齢を重ねてくると、自分がより多く見たものがその比率で短歌に詠われることがとても多いことに気付きます。老化、散歩、食べ物、庭の草木、テレビニュースなど、視線が向く方向が頑なになって柔軟性を失うのです。「老眼」とは言っても「老心」とは言いません。心は老いなど何処吹く風で、屈伸運動を続けているかもしれないのです。
やはり「生きて戦って欲しかった」というのが、読後の感想です。
そして、せっかく見つけた「ひっかかり」を生き続ける方向に繋げられなかった「短歌」の無力感を感じます。歌集を出すことが夢だったということですが、出版などあくまで通過点に過ぎません。その先まで追求したいと思えなかったことは、歌壇や歌人や短歌にはそれだけの魅力や希望を感じなかったのでしょう。少し踏み込んで言うならば、周りの人間の誰一人、希望の灯りを灯せず、導けず、従来通りの傍観者に過ぎなかったということが言えると思います。歌に対しては必要以上に過干渉して拡大解釈し、頭でっかちな評を並べるくせに、対人間に対してはきまって見物客を装う歌人や歌界の悪癖だと思います。
31音の薄明かりを現実の大きな暗がりが飲み込んで、そして何もかもが潰されてしまったような無力感だけが残ります。
表題の滑走路の歌がその特徴をよく著していますが、言葉をひっくり返すと作者の心の声となるような歌が多く、チクチクと胸に響いてきます。
・きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい
(僕のために使える滑走路などはなく 僕は翼を持てないままだ)
その一方で稚拙でも真っ直ぐでうらやましい程の気持ちの歌も所々にあります。輝いている瞬間をもっと詠いたいという望みもおありになったのでしょう。
・自転車の空気入れつつこれからの恋のことなど考えている
・完熟のトマトの中に水源のありて すなわち青春時代
・いつまでも少女のままのきみがいて秋の記憶はこの胸にあり
・僕たちのソファーでありし草地にて還らぬ友を想い続ける
・手を伸ばし足を伸ばして転がれる真夜の孤独を何と呼ぼうか
短歌としてはまだ発展途上と言わざるを得ないものが大半ですが、独特の細やかな観察眼が光る良い歌もあります。
・ぼくたちはほのおを抱いて生きている 誰かのためのほのおであれよ
・没頭に至れるまでの道筋を歩むがためにまずは座りぬ
しかしながら、その後の歌を私たちは読むことができません。
作者に希望をもたらさなかったものは一体何だったのでしょうか。
それがある種の「恐怖心」のようなものなのではないかと、タイトルを見てそう思いました。飛び立ちたいと願いながら、飛び立てばいいと詠わずにはいられない、新しい世界へ飛び立つことも恐怖、飛び続けることも恐怖、そして何より無事着陸できるかという恐怖。
その気持ちを打ち消すだけの風がどこにも吹かなかったという、嘆きに聞こえてくるのです。図々しく貪欲に生きないことも一つの美学だと思いますが、決して恐れの雨を避けきれずにずぶ濡れになってしまう環境でもなかったと思います。鳥居さんのように生きて詠い続ける道を選んで欲しかったと思います。傘をさせば雨が避けられることも知っていたし、小さいながら自分の傘も持っておられたでしょう。他人も傘を貸そうとしてくれたでしょうし、何ならどこかの傘をちょっと借りたり、軒下で雨宿りをする選択もあったでしょう。歌集を読めば読むほど、「決して濡れたくはない」という決意よりも「濡れたから仕方ない、傘を差すのは面倒臭い」という諦めの感情の方が目立ちます。
だれかのための炎どころか、自分の炎さえも信じられなくなっては救いようがありません。
彼の出自を見る限り貧しく厳しく恵まれていないとは思えません。
「青さ」そして「甘さ」が目立ちます。これではとても時のふるいを耐えて後に残る事など叶わないでしょう。今更何を言ってもはじまりませんが、死後の世界で塔和子さんや島秋彦さんに是非とも出会ってほしいと思います。そしてほんとうの辛さ、悲しさ、厳しさ、優しさを噛みしめて欲しいと願わずにはいられません。
何かにすがることは間違ってはいないし、恥ずべきことでもない。
すがる物を欲しがらないのであれば、自分が強くなるしかない。
何より死んではいけない。特攻機を飛ばすための滑走路なら、もう必要はない。
2021年9月27日
短歌 ミルク