山奥の岩清水がとびきりに美味しいのは、豊かな自然の中を長く寄り道をしながらしたたり落ちてきたものだからだと思っています。
現代では水道の蛇口をひねればいつでも水は手に入りますが、賢い烏でもなければ蛇口をひねって水が出ることなど、野生の動物には解らないことです。
「そんな水を飲まなくても・・・」と動物に対して思ってしまうのは、甚だ勝手な人間様の論理であって、彼らは次にいつ水にありつけるかすらも解らないことを知っているからこそ、泥水であっても必死に飲もうとするのです。
昭和から平成を経て令和へと、私たちの生き方や心情から何が最も失われたのでしょうか。
私は「寄り道」であると思います。
「寄り道をする余裕」であるとか、「寄り道を許容する社会」と言っても良いかもしれません。
インターネットとスマートフォンは、求める物への最短距離ばかりを探すために使用され、
目にすることと言えば「結果」として現れたことばかりです。もう本当にすべてのことが、
攻略本でカンニングした後に余裕でクリアするゲームのようにつまらなくなってしまい、サプライズはおろか、サプライズを産み出す発想そのものを否定していると感じるくらいに砂漠化しているのではないでしょうか。
私は学校の先生から教科書で教わったことを何一つ覚えておりませんが、教科書に載っていないことや教科書とは関係のない行動や活動を褒められたことは鮮明に覚えています。
無謀で縛られない私のことを叱るときにも、褒めるときにも、先生たちは何処かうらやましそうな表情で見ておられました。時に輪郭線をはみ出すことこそが生きていることの実感や充実をもたらすことを知っていた私に、はみ出した時の自分の姿を重ねていたのかもしれません。
発明や発見のほとんどが「寄り道」の産物であることも見逃せません。
短歌の視点はこのような寄り道の発想に基づいて、磨かれなければならないと思います。
「普通が一番」とか「健康が第一」というありきたりな想起を一旦横に置いて、念入りに観察しなければ、いつまで経っても「うまいこと言う」ことを並べることから卒業できません。とにかく現代短歌には「原因と結果の因果関係」が描かれたものが極めて少ないと感じています。表面だけや結果だけに固執し、更に自分の身の回りだけの風にしか晒されないとなると、共感以前に飽きられてしまうことでしょう。
説教じみた歌になったとしても、ささくれのように疑問を呈して固まった思考に寄り道をさせるような歌が今こそ必要であると思います。言葉は短ければとても鋭利ですが、だらだらと長くなってしまえばその鋭さも失われます。だからこそ俳句や短歌は生き残るべきものとして語られているのだと思います。
何度も噛み味わえる干物のように、少しだけ寄り道する工程が必要なのでしょう。
現代の袋菓子のように表面に振りかけたフレーバーの粉だけでは、きっと口内炎が出来るだけでしょう。体に良いはずもないのでしょうね。
・ 湧き水は何を語ってくれるだろう我も一つの寄り道として
心を静かに研ぎ澄ます時、水の旅した長い道程も感じられるはず。水の惑星に暮らし、殆どが水でできた体を持つものならば。
2021年4月9日
短歌 ミルク